皆さん、こんにちは。
カウンセラーの佐原です。
こちらのブログでは、久しぶりになってしまいましたが、
あけましておめでとうございます( 遅い! ので旧正月の挨拶として…(笑))
皆さんはお元気にされていますでしょうか?
今日はこれまでとは少し違った角度から、(本当は最も本質的なのですが)人生を天国に変える方法をお伝えします。
イメージを使った面白い実験があります。
自分が今、冷たくて汚い川の中に浸かってると想像してみてください。
汚くて臭くて不快な水が体にまとわりつくように流れていきます。
そして、冷たい水が体の芯まで冷やし、ブルブルと震えが出ます。
それをよく体感してその状態で、遠くの岸辺にこちらを見ている人がいると想像してみてください。
その人はどんな人でどんな表情であなたを見ているでしょうか?
このイメージワークをしていただくと、みなさん、険しい表情をした人がこちらを見ていると言います。
逆に暖かくて心地よいお湯に浸かっている至福の感覚の中で、岸辺にいる人を想像していただくと、
穏やかで優しそうな人が笑顔でこちらを見ていると言います。
そして自分はその人に親近感と好意を抱いていると言います。
これはどういうことでしょうか?
私達は身体感覚を投影した世界を見ている
つまりこれは、自分の身体感覚の「快-不快」を外側に投影することで、現実を認識しているということです。
自分の内臓の感覚が重たく不快であれば、周りの人も意地悪そうに見えて、目に入るニュースも嫌なものばかりが認識されます。(良いニュースは勝手にフィルタリングされて削除されます)
みぞおちに不満の感覚があると、目の前の人の笑顔は嫌味な笑顔に見え、
どれほど貯金があっても、将来に漠然とした不安を感じます。
つまり、外側の現実や貯金の多寡が自分の不満や不安を作っているのではなく、
自分の中の身体感覚が現実というスクリーンに色とりどりの映画を映しているに過ぎないのです。
いくら周りの人が優しい言葉をかけてくれようと、仕事の成果を出そうと、おしゃれして美しくなろうと、
みぞおちや腰回りにあるザワザワを無くさない限り、その喜びを受け取れずに、やがては自分が投影した不快な世界を現実化していくこととなります。
例えば宝くじが当たって、偶然に豊かさが舞い込んだとしても、人は無意識にその現実を自分の憂鬱な身体感覚の方へ近づけようと調整します。
つまりやがては散財し、憂鬱な現実を再創造してしまいます。
そのようにして人は自分が投影したイメージに現実を近づけることを通じて、やがては自分の作った映画の中に閉じ込められて行くのです。
幸せになるために外側の現実を変える努力がなかなか持続しないのはそのためです。
人は自分の内臓感覚を普通だと思って生きている
そして、人は生まれた時から既に、特定の内臓感覚を持っています。(生まれた時にゼロからスタートするわけではないのです)
胸のあたりがウキウキしてすっきりと軽い人もいれば、
胃が重たくて何かが詰まっているような不快感が常にあって、肩や背中に常に重さを抱えている人もいます。
そして、その身体感覚を投影することで現実を体験して行きます。
登場人物の発言も出来事も同じでも、まるでホラー映画のような世界を体験している人もいれば、ホームコメディーのような明るく爽快で何の悪意もない世界を生きている人もいます。
つまり本当の意味で人生を変えるということは、
自分が投影している映画を変えるということであり、
それは突き詰めると、投影元のフィルムの役割をしている身体感覚をより良いものに変えるということです。
だから世の中の理を悟った意識のマスター達は、「人は身体からしか悟れない」と言い、ヨガをやって断食して身体を浄化するわけです。
身体に残っている過去のネガティブな感情エネルギーも、家系から来る不快な想念エネルギーも、日々取り込んでしまう邪気も日々浄化して、常に身体を清浄に保つ事で身体感覚の幸福感を最大化し、
逆にそれを投影するスクリーンである現実は、より質素に、お金も意識せず、社会的な立場も名前も捨て、
そんな何もない現実に、最高に心地よい映画を投影し、嬉嬉として生きていきます。
全ては身体感覚に過ぎないと真解することで、外側の出来事は何ら彼らに影響を及ぼすことはできなくなっています。
究極の安心がここにあります。
では、私達はどうでしょうか?
どんな映画を投影することで、今の人生ができているのか少し時間を取って、意識を集中して胸や胃やみぞおちを感じてみてください。
ゆっくりと呼吸して静かな意識で丁寧に感じてみてください。(厳密には瞑想意識でやると良いです)
内蔵にざわざわしていたり、詰まっているような不快感がありませんか?
あるいはそこはかとない幸福感があるでしょうか?
それがあなたの人生という映画のフィルムです。
そこにスースーと呼吸が通り、爽やかな解放感に溢れているとすれば、
「人生とは朗らかな開放感の中でダンスをするように人と関わること」なのかもしれません。
裏側に隠れたフィルムを発見する
そして最近僕が自分にワークをしていて驚いたのは、体の裏側の感覚です。
「無意識に押しやった感情が、体の後ろ側に追いやられて蓄積する」というのは知識としては知っていましたが、
自分は特に不快感を感じていないから大丈夫だと思っていました。
でも、違っていました。
そもそも自分は何も蓄積されていない本来の状態というものを生まれてこの方、一度も体験したことがないから、気づいていないだけでした。
特に背中が重いわけではないから、これくらいが普通だろうと思っていました。
でも、瞑想意識で背中の肩甲骨の間や胸の裏側、胃の裏側に集中して意識化していくと、その感覚が動いて解消され、何もない背中の状態というのが少し分かるようになってきました。
分厚い岩盤にヒビが入って、パーっと明るい光が差し込んだような感覚。
何だこれは!?となりました。
どうやら背中も体の前面同様に、スースーと風が通るような爽快感を持つことができるようなのです。
瞑想の中でその片鱗を感じ取って私は興奮しました。
意識のマスター達がなぜ何も持たなくても幸せなのかが分かった(正確には少し想像できた)気がしました。
あの身体感覚以上に何も所有したいものなど無い。
というより、あの身体感覚は世界を所有しているようだ。
風のような体と心で、ダンスを踊るように嬉嬉として日々活動する。誰かと交流する。
その瞬間瞬間が喜びであり、それを残したり証明したり保存したり所有する必要などない。
今ここの瞬間のダンスをただ楽しんでいればいい。そんな在り方の可能性が見えた気がしました。
面白い冒険がありますよ
フォーカシングを胸やお腹だけではなく身体の裏側にも応用してみてください。
肩も背中も頭の後ろもスースーするような爽快感が本来の感覚だと思って、詰まっているものをよく意識化して味わってみてください。
それに何か感情があるのだと思って言語化しようと意識を向けてみてください。
体に詰まっている重さが解消されると、身体全体に清々しい風が吹き渡ります。
そんな至福の身体感覚が投影された世界は、これまでとはまるで違って見えます。
あの人達はそもそも悪意など持っていなかった。
晴れ渡る青空は、自分を祝福しているようだ。
働くという純粋な運動の喜び。
その様な世界に参入していくことができます。
この人生の可能性。
人生をゼロからスタートするのではなく、重たい何かを背負っていること自体に気づかずにそれが当たり前だと思っているところからスタートさせ、
やがてはそれを発見させ、本当の自分に気付き開花するように設計されている。
この開花というプロセスこそが、人生の粋。
これを体験しないということは、与えられた人生のギフトの最良の部分を取り逃がしているということなのかもしれません。
いやはや、面白いものですね。
謎は楽しんで解いて行きましょう。
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