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『聖者タイプ』HSPを属性で分けたら見えてくるもの

みなさん、こんにちは。
カウンセラーの佐原です。

今日はHSPに対して、新たなタイプというか属性について書きたいと思います。

というのも、「私HSPなんです」と訴えて来られるクライアントさんのセッションで内面を掘り下げていると思うのは、一言でHSPと括られても内面で起こっていることも性質もかなり違うんです。

まるで別人なのです。でも一方で何種類かの似た属性やタイプに分類できることも分かってきます。

そして、気づけばそれぞれの属性に対するテーマや役立つノウハウというのもまとまって来ます。

属性が違えばエネルギーの供給源も違い、向かうべき方向性も違います。

今日はそんな数ある属性の中の1つ『聖者タイプ』(と勝手に僕が名付けた)についてお話しします。

結構、当てはまる方が多いと思います。

これはタイプでもあり、属性でもあるので、「あ、自分まさにこのタイプだ!」という方もいらっしゃれば、「そこまでじゃないけど、ちょっとその属性を持ってるな」という方も方もいらっしゃいます。

どこまでピンと来るのか来ないのか。

聖者タイプの世界観をどうぞ。

聖者タイプ

彼ら(彼女ら)の特徴は、もっと深遠な人生の真実を生きたい。自分の中の神聖さを発揮して精神性を高めていきたいという漠然とした(時にははっきりとした)意図を持っていることです。

効率や生産性を求められる時代とは合わない意図を持って生まれてしまった生きづらさから、「生まれる時代を間違えた…」とぼやく方が多いのも特徴です。

あるクライアントさんのセッションをしていると、こんなことがありました。

肩や首のあたりが凝り固まり、そこに怒りの感情が溜まっているのが見て取れました。解消しておかないと神経の消耗が激しそうです。

そこで、その凝りに意識を向けてもらって、そこにある怒りが何を訴えているのか、何に怒ってるのかを探ってもらいました。(フォーカシングです)

すると、その肩や首の怒りはクライアントさん自身に向いていました。自分への怒りです。

「いいかげんにしろ。何をしている。そんなことで良いのか?もっと神聖な自分を生きろ。神から離れている」

ご本人も驚くことに、肩の怒りはそう訴えていたのです。
その意図を受け止め、そういう時間を取ることを約束すると、肩の力が抜け、憑き物が取れたように楽になられました。

このように体感にまで出てきているケースは少数ですが、カウンセリングでの対話が深まっていくと、クライアントさんの言葉の奥にこれと同じ衝動、神聖さへの強い憧れが感じ取れることはよくあります。

そこで「こういう思いが見て取れますが…?」とお伝えすると、「そうなんです」と、そこからより深い本心の語りへと入っていかれます。

この衝動を何と名付けるか、どういう言葉で表現しているかは人それぞれです。

「自分の人格を完成させたい」「自分の全体性を生きたい」「精神性を高めたい」「本当の自分を生きたい」「神に近づきたい」

皆それぞれにしっくりくる言葉を与えています。

これはつまり、内側からスピリチュアルな欲求が高まっているということなのですが、面白いことにこの聖者タイプの方には「スピリチュアル」という言葉を毛嫌いしている人が多いのも特徴です。また既存の宗教などもむしろ軽蔑していたりします。

「それじゃないんです。スピリチュアルなんて言葉ゾッとします。でももっと何か深く真実に根ざした世界に触れたいんです。」そういう強い願望を持っておられるのです。

聖者タイプのその他の特徴

この聖者タイプの性質を更に挙げると次のようになります。

・欲が薄い。なので俗世的な意味での夢や目標に興味を持てない。
・薄っぺらい会話にどうしても興味が持てない。
・質素に生きようとする。
・神社仏閣に心惹かれる。
・ニューエイジ的な世界観や拝金主義的なスピリチュアル業界が嫌い。
・自分は何者で、どこから来てどこへ行くのか?という問いが、深いところに常にある。
・スピリチュアル好きなふわふわした感じが無い。

このタイプの人は、成功したいとかお金持ちになりたいとか立派な家に住みたいとか人から羨ましがられたいとか、そういった欲望がとても薄いのですが、

それにも関わらず、食うためには就職するしかなく、場合によっては自分の志よりもずっと低い企業理念の元、経済活動をしなければならないことに絶望していることが多いのも特徴です。

(この見立ては社会に所属できない青年期特有の理想主義と全能感を肯定してしまう恐れがあるため、最大限の注意が必要ですが、それでもカウンセラーとして客観的に見て、気高く清潔な精神が、働くことを通じて本来のその人よりも小さな存在にならなければならないのは悲劇と言えます。そりゃ生きづらい。)

「あれが欲しい!」「もっと良くなりたい!」という欲望によってドライブされている資本主義のゲームにはいまいち乗れず、でもだからといって片手間で参加できるほど優しいゲームでもない。やれやれ。参りますね。

では自分をドライブしてくれるものが何なのか?と問うと、それはとても漠然として説明しにくくて、あえて言葉にすると「スピリチュアリティ」や「宗教」とかにカテゴライズされそうだけど、違う! それでもない何かであり、それをパシッと満たしてくれるものがどこにあるはずだ。でも、それがどこにあるかはわからない。ただ今いるこの場所が私のいるべき場所じゃないことだけは分かっている。

「ということで、先生…。どうしたら良いですかね?」

とおっしゃいます。

確かに名付けようのない(名付けられると陳腐になるからやめて!となる)彼ら(彼女ら)の求めているものがありますね。それは私も共有しているのでとてもよく分かります。しっかり生きたいと心の奥が渇望している。その衝動につながりたい。

「心」と「精神」は違うものだと体感する

この聖者タイプにまず絶対的に必要なのは、日々の生活の中に1人になれる神聖な時間を持つことです。

人やテレビやスマホから離れて暗闇にローソクの光のみにして、1人でゆっくりと世俗を忘れるための時間です。神聖な音楽をかけてみるのも良いでしょう。

心が静まるとその奥から『精神』が顔をのぞかせてきます。

そして次に必要なのが瞑想です。

瞑想には様々な種類があり様々な効用がありますが、この聖者タイプにとって役立つのは、自分の気高さと一体化する瞑想です。つまり心を静め、精神の自分に立ち返るための瞑想です。

「私は誰?」と内面に問いかけながらそれには思考で答えない。ただ問い続けることで、自分の社会的なパーソナリティや名前を捨てて、「それでないもの」としての大きな自分の存在感に帰っていく。

小さな我としてのわたしではなく、その背景として存在している自分にリアリティを移行していくための瞑想です。

そして、もう一つ鍵になるのは、これは大きなチャレンジになるのですが、日々の仕事を自分の気高さの表現に変えていくことです。

瞑想でつながった自分の気高さや存在のエッセンスを、例えば目の前のお客さんにかける言葉に乗せてみる。そうやって、ただの仕事を(場合によっては低い理念によって金儲けの場に過ぎない場所においても)気高い奉仕の活動に変えていくことです。

それをすると、自分が誇らしいような自己肯定感と自尊感情が溢れてきます。先のクライアントさんの例でいうと、怒っていた肩と首のパートが褒めてくれるわけですから、身体が緩み祝福が込み上げ生命力が取り戻されていきます。

まとめると、
・1人世俗を離れるための神聖な時間を取る
・瞑想することで普段の私を離れる
・仕事を自身の神聖さの表現に変えていく

の3点です。

そうすることで元気が回復して心が晴れ晴れしてくるとすれば、あなたはきっとこの聖者タイプです。

人生の目的に、自分の精神性を澄みきらせ高めていくということが含まれています。

仕事に込める意図や活動の純度を意識してみてください。

そして、慌てず行きましょう。

問いは問いのまま心に置いておく

『自分は何もので、どこから来てどこに向かうのか?』

この大きな謎を長い人生をかけて解いて行く、あるいは解くように生きていくというのが、この人生の神秘であり魅力ですからね。

急いで頭で考えて解いたり、誰かから答えを教えてもらうことで人生を味気ない問題集に貶めないように注意しましょう。そうです。「スピリチュアル」や「宗教」という既存の枠組みを嫌うように、これらは定義されたり教義化されたり言語化されることを嫌う性質のものです。

問いは問いとして胸に置いて、ゆっくりとこの人生の体験がその解答として現れてくるのを待ちましょう。そして洞察しましょう。

大丈夫です。表立って言語化していないだけで、実は仲間は沢山います。

そして、書物の世界に足を踏み入れれば、偉大な先輩たちがたくさんいて、今も私達に語りかけてくれています。

同時代的なスピリチュアリズムや宗教が肌に合わないならは、その静かな心を持って図書館に行って、気になる本を手に取って見てください。自分の目で見て言葉に触れて、あなただけの魂の師を見つけるのはとても愉しいプロセスです。

すっとスポンジが水を吸い込むように内面の深くに言葉が流れてくるような本があれば、あるいは心が静まり深いところふわっと喜ぶような本があれば、その著者こそが今のあなたの師となる人です。

借りて帰って、神聖な時間にゆっくりと師の言葉に触れてみましょう。

心ではなく、精神に栄養が満ちていく感じって、たまらなく良いものですよね。

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